出会いとつながり

 行動と思考を止めなければ色んな人と出会う。志を同じくして高めあえる人、僕の小さな力を必要としてくれる人、尊敬できる人、頼りになる人、かっこいい人、思いっきり学びたいと思える師、気づけば色んな人とめぐり会う。ふとした瞬間に僕は一人じゃなかったと思えたらそれは幸せ。世の中を良いほうへ持っていきたいって思いを持っているたくさんの人たちと、団結したい。誰かの役に立ちたい人の役に立ちたい。やっぱり全ては、自分の行動からしか始まらないのかも。今、4人の仲間と始めようとしている企画は(つまりまだ着手してないということだけれども)かなり面白いことになりそう。途中経過をブログでも更新していこうと思っています。
 最近は先生に紹介してもらい借りた本を読み進める。量が膨大だから圧倒される。でも、絶対自分のものにする。訳書ってどうしても必要以上に難解になるから、やっぱり読める言語は多い方が良い。キーワードと参考文献の終わりなきリンクをひたすら追いかけていきたい。もう20歳越えてるし、的を絞った方が良いのかという焦りはあるけれど、何歳になっても自分の興味は鎖に繋がずに放し飼いにしておきたい。乱読していたい。その面ではここ最近、文庫と図書館に非常に助けられている。文庫はなんといっても廉価だし、長距離通学(通勤)の人にも持ち運びやすい。そういえば、文庫化される本とされない本があるのは、採算の問題なのか権利の問題なのか、また別の基準があるのか気になりますね。図書館で借りられる本でも、面白かった本は自分用に一冊買いたい人間なのですが、思想関連の単行本なんかは高価すぎてそろえるのは不可能。でも好きなバンドのCDと同じで、投資の意味も含めてその業界に少しでもお金を回せればと思っているのです。自分が数百円数千円払ったところでどれほど経済的に影響があるのかは分からない。でも、自分の一冊を持って好きに線を引いたり付箋を貼ったり出来れば学びやすいしね。 先賢たちの業績を知るたびに自分の凡庸さと非力さを思い知って愕然とするけど、せっかく刻苦して残してくれた偉大なモノを僕達が目一杯吸収して、おこがましいけど何かをちょっとでも付け足してパスできたら素晴らしいと思う。

「自粛しろ!」「自粛すべきだ!」という言葉に違和感を覚える人は少なくないと思う。言葉尻をとらえるのに拘泥するのは生産的ではないかもしれないけど、少なくとも自粛とは「自ら進んで行いや態度を慎むこと」(大辞泉)であるはず。だから、そもそも誤用です。社会的発言力のある人間の「自粛要請(もはや撞着語法)」は結果やその影響からみても実質上の権力行為です。具体的には石原慎太郎のことを言っています。顔の見えない群集による東電へのバッシングも同様で、執拗ないじめや嫌がらせやバッシングの果てに生活をめちゃくちゃにされたり、自ら命を立った人がいたとしても、それは実質上の暴力であり、結果によっては自殺ではなく広義の殺人であるといえるでしょう。たちが悪いのは、責任を取る固有名を持つ人間がそこにはいないということです。言い換えると、そういう人たちの大半は匿名でしか発言していない。これは断言しても良い。つまり電話や投書やネット上の書き込みで「私は○○の××という者だ。自粛しろお前ら。」と言う人は圧倒的に少数派ということです。もちろん、社会的に発言力のない人が署名で発言することに大きな効果があるとは思わない。しかし少なくとも、自分の名前を添えずに行われたすべての批判は、無責任なものになりやすい以上、ポジティブな効果をもたらさない。だからこそ、義憤にかられて軽率な行動をとる前に、その発言に自分の名前を載せても実行できるか、自分の頭で考えてみるべき。ちなみにこれは自粛しろと言っているのではなくて、はっきりと「止めろ」といっているのです。

 じゃあ僕も素性を公開した上でオピニオンを綴るべきと言われればその通り。でも、もしそのせいで家族の生活を壊すようなことがあったら取り返しが付かない。結局その程度といわれれば、それまで。無責任といわれれば、それまで。