分かりやすさと具体性

 一般的に、抽象的=分かりにくいもの、具体的=分かりやすいもの、というのが通説でしょうか。

 具体性のない批判はただの愚痴であると僕は考えています。何を批判するにせよ、「どこがどうまずいのか」「では他にどういう手段がある(あった)のか」を示せないものは、それらを示せる種類の批判よりも生産的になることはありえません。しかし具体的な話になってくると、理解するためには次第にある程度の"予備知識"が前提となってきます。つまり少し込み入った話になってくると、自分の無知や無理解が他の誰でもない自分の"読む"という行為によって明らかにされてしまう。でも自分の"バカさ加減"に目を向けることはある程度の"苦痛"が伴う。つまりどんどん"抵抗"が大きくなって、読みにくくなっていく。

 そこで当面の選択肢は二つあります:「苦痛を引き受けてその根本原因の解消をはかる」、もうひとつは「苦痛から逃れるために選択的をそういった記事・言説を避ける」。後者の選択肢を取った人間のために用意されているのが、具体的記述は含まないが何となく世の中に関心を持っている気分にさせてくれる"娯楽的"な種類のメディアです。

センセーショナルな言葉遣いで、使い古された"批判的"な定型句を繰り返しておけばいい。とりあえず詳細は分からなくても、予備知識が不足していても「これだから権益まみれで政争ばっかりやってるお偉いさん方は困るよ、まったく。」とか、使い古しのストックフレーズでお茶を濁すことができる。
スキャンダルが喜んで消費される理由のひとつは、そこでは予備知識も文脈も考察も、一切関係なく、「あいつは悪だ」と一刀両断できてしまうその切れ味のよさにあります。そこに知的負担や自身の「バカさ加減」が露呈する危険はないので、批判の仮面をかぶった娯楽に浸っていられるのです。


もうすこし話を広げましょう。


「世界が賞賛する日本」系の週刊誌記事・新書・コラムは、後者の選択肢の好例です。自分の耳が痛くなることを選択的に避けて、特定の「成功した日本人」や「親日的な記事」のみを取り上げるのは非常に恣意的な選択が行われた結果だと思います。

しかし一方では仰々しい文言とBGM、写真で塗りたくられた犯罪報道が増え、これはドキュメンタリー作家の「森達也さんが繰り返していらっしゃることですが、なぜ、統計的な事実に反して体感治安が"悪化"してしまうのか。

 僕はこの点についてはこう考えています。誰しも自分の"善良さ"を証明することは実は相当に困難で、邪悪な面を併せ持っていることもうすうす感じてる。でもそれは直視したくない。そこで自分よりも「凶悪・インモラル」な人間の存在を確かめることで、相対的に自分の善良さを証明し、溜飲を下げる。
 反対側では、好意的に紹介される人物や出来事を「日本」というキーワードで自分と結びつけて、自分がその一部であるかのように「読み替えて」、自分を慰める。

 心理学では連合の原理というらしいです。スポーツの応援なんかは良い例ですね。勝ったときには「俺達の勝利」という意識が、負けたときには「(同じチームを指して)彼らの敗北」という意識がどこかで働いている。好ましいものを引き寄せ、好ましくないものを遠ざけるのは度し難い人間の性なんでしょうか。

 また、少し前の福島の原発事故から中国の高速列車衝突事故への報道シフトは象徴的です。自分の過ちよりも他者の過ちを報じる方が「気分が良い」のです。

 ワイドショーやタブロイド紙はこうした心理を狙い撃ちにして、ああいったコンテンツの構成になっているのではないかと私は思います。メディア側の選択が先か消費者の潜在的な欲求が先かは証明できませんが、テレビ局も活字メディアもある程度市場原理にさらされてる以上は、僕らの手も真っ白じゃないことを勘定に入れて、メディアのことを考えなければいけないと思います。

僕らが「くだらない番組だなあ」「しょうもない記事だなあ」とか文句を言いながらそれを消費しているとき、そのくだらなさに加担していることを都合よく忘れているのです。

エネルギーについて思うこと

 節電の夏ということで、JRの車内も自動販売機のパネルも暗く、大学のエアコンも弱めに設定されている2011年。学祭でTeamZEROが出展するかもしれないので、なるべく最新の情報をお届けしたい。ボランティアコーナーさんたちとは違う方面から攻めるために、調べていたことを少しずつ吐き出していきます。

 それが不可能な場面で不偏や客観を騙るのは大嫌いなので、まずは僕の立場を明確にしておきます。
 結論から言えば僕は「漸進的脱原発派」です。電力許容量の数値や電気予報が正確であるという前提に立てば、すべての原発が一度に止まれば今後この国が混乱に陥るという意見は(その可能性はあるだろうと)僕も受け入れます。しかしいくら操業が完璧な安全管理の下で行われたとしても、「トイレ無きマンション」と言われるように放射性廃棄物の問題が解決していない以上は、原子力も未だ未完成なシステムであることは再生可能エネルギーと何も違わないでしょう。
 なので、「現在稼動ないし点検中の原発を利用し続けることが電力の安定供給の面から見ても"現実的"である」という意見に僕は同意できません。それは単なる問題の先送りです。僕の調べた限り、再処理された高レベル放射性廃棄物の最終処分場が決まった例はフィンランドのみです。まだ後始末の仕方も用地も決まっていないテクノロジーが何故"現実的"なのか、ずっと疑問に思っています。
  そしてこの「節電の夏」を無事乗り切ることが出来れば、現在止まっている原発はとりあえず止まったままでも致命的なクラッシュ起こらないことを証明できる。少しでも原発依存を減らしていくことから始めたいと思っています。
 
 まず確認しておきたいのは、原発容認派or推進派は必ずしもイコール反・再生可能エネルギーではないということ。原発は必要と考える人=再生可能エネルギーを叩く人、ではない。もちろん再生可能エネルギーを推進する人=原発を叩く人、でもない。相手をひとくくりにしてしまうことは避けたいですね。
 石油依存を減らしていくことに反対の人は少ないと思います。気候変動とCO2に関係があるかないかは別問題として、エネルギー自給率を高めることは安全保障上も異論のないことだと思います(異論あったら面白そうなので詳しく聞きたいです)。問題となるのはその手段の問題です。

 次に、「再生可能エネルギーは高コストで、出力が不安定だから非現実的」という意見について考察したいと思います。
 原発のコストやCO2排出量の計算方法については色んな反論があると思いますが、そこには今回は触れません。
 電力単価が上がればコストがかさみ企業の競争力が落ち経済が停滞する、というのはよく耳にする意見です。僕は経済について全くの素人ですのでこれの当否について論じる力はありません。しかし、コストとは即ち需要であり雇用であるとも思うのです。たとえば、マイクロ水力発電はゴミの除去などの手間がかかる、ということはその分人手がいる、つまり働き口が増えるということでは?と思うのは間違いでしょうか。

夏の節電としての太陽光発電導入は非常に効果的であると僕は考えています。電力使用のピークが夏の午後、エアコン利用が増える時間帯にあることはもうほとんど常識に登録されていることと思います。また太陽光のデメリットとして「天候に左右され、夜間は発電できない」という点が指摘されます。これも常識です。しかしピークカットの観点から見ればこのデメリットの影響は非常に小さくなります。
 Newton2011年8月号によれば、電力使用ピークである14時頃の家庭の消費電力の53%はエアコンです。ではなぜ家庭でエアコンをつけるのか、普通に考えてみましょう。それは暑いからに決まっていますよね。そして、暑い日というのは概して天気が良くて晴れている日です。つまり、夏のエアコン利用によって電力需要が高まるとき、太陽光発電の気候による不安定さのリスクは小さくなるされるわけです。

 ただしパネルの温度が極端に上がってしまうと太陽光パネルは発電効率が10〜20%落ちてしまいます。これを聞くとペシミストと原発推進派はそれみたことかと勢いづきそうですが、発電量がマイナスになるわけではなく80〜90%は動くわけで、勿論雨の日より発電できることに変わりない。これは致命的なデメリットにはなりえません。ピーク時の消費電力を削ることに目的を絞るなら、使えるリソースはどんどん投入すべきです。

 再生エネルギーへの数字を用いた批判のなかには、太陽光なら太陽光、風力なら風力、バイオエタノールならバイオエタノール「だけ」で石油等の既存のエネルギーを置き換えたという前提に立った数字をもとに展開されているものがあります。その前提が「非現実的」であることは明らかです。もちろんそういった包括的な数字を脱原発派も用意して反論する責任があります。
 たとえば太陽光とマイクロ水力発電を同時に考えて見ましょう。太陽光発電の大敵は悪天候です。雨が降って太陽が隠れては発電できません。しかし、渇水が致命的デメリットであるマイクロ水力発電と併用すればそれぞれのデメリットをある程度相殺できる。ただし、じゃあ曇りの日が続いたらどうすんだといわれれば苦しいです。



 以上、電気の知識も経済の知識もないのですべてが素人の考えですが、専門的知見や明確な根拠のもとで間違いの指摘や反論などをしてくれる方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。

 厳密な科学的命題において、その発言や主張が誰によってなされたかはその命題の当否を左右しません。理解の深さ(これも恣意的な物差しですが)や利害関係、国籍、年齢、職業には全く関係ありません。原発議論にやらせがあろうとなかろうと、孫正義が"政商"であろうとなかろうと、それぞれのテクノロジーの技術的な可能性は何ら変化しません。政治的・思想的な議論とテクノロジー上の議論を混同すべきではありません。

 再生可能エネルギーの問題点、原発のメリットについて詳細かつ具体的に論じた本や記事を探しています。ご存知の方、お願いします。WEDGEの吊広告が気になったので買ってみました。読み込んで今は調べ直しと考え直しをしています。僕は脱原発派ですが、別に寝返ることにためらいはありませんし、必要なのは自分の意見を大事に守ることじゃなくて、たくさん知ってそれを修正・改良、場合によっては転向していくことだと思いますので。

EV、バイオエタノール車、電動スクーターなどなど書き散らし

最近、日産のLEAFのCMが目に付きます。石油資源が有限である以上、普通のガソリンから電気、あるいはバイオエタノール等の代替燃料へのシフトは不可避の課題のはずです。石油依存を可能な限り下げることは、“最後のオイルショック”を先延ばしにする意味でも価格変動によるリスクを避ける上でも、異論の無いほど有用なことであると思います。

【希望大国ブラジル】第4部(5)快走するエタノール車 日本での“迷走”尻目
バイオエタノールと食料の競合や、穀物の生産自体に必要なエネルギーなども考慮する必要がありますが、とりあえず混合燃料で本当に部品は腐るのか、実験したデータが欲しいですね。調べなきゃ。

EV車の問題点は「航続距離」「リチウムイオン電池の安全性」「充電手段」あたりなんでしょうか。
ソーラーパネルと組み合わせれば航続距離も伸び充電手段も増えるのではと素人らしい考えが浮かびました。天候にもよりますが車体に搭載したときに、重さによるエネルギー消費とパネルによる発電量を比較して後者の方が大きければ載せる価値はあるでしょう。が、現行のEV車に載ってないところを見るとやはり費用対効果またはエネルギー効率が悪すぎるのかもしれませんね。

ちょうど原付が欲しいと思っていたところなので、ついでに電動スクーターについて色々調べてみました。

よくまとまっていたのはこちら
日経トレンド『震災後に需要急増! 「電動スクーター」の“本当の実力”』

出力600wまでなら原付免許で乗れて、それ以上になるとナンバーの色が変わってしまうみたいです。

価格については、普通の原付と比べて常識はずれに高いということはなく、10万円を切るモデル(テラモーターズ社SEED)もあるので、これはクリアされたといっても良いでしょう。思っていたより選択肢も多かったです(まだまだ少ないですが)。

 どのサイトやブログを見ても、だいたい問題となるのは「加速」と「1回の充電あたりの航続距離」の二点でした。
たしかに、すぐに充電が切れて走れなくなるのでは実用に大きな壁になります。家庭のコンセントで充電が可能でも、充電スタンドが増えても、充電時間が短くならなければ意味がありません。
 でもスタンドで「給油するように充電」するのではなく、乾電池を買う要領で使用済みバッテリーと充電済みバッテリーを「交換」する方なら、充電にかかる時間の問題は解決できそうな気がします。回収した使用済みバッテリーは充電してまた流通させることが出来るし、コンビニなどでそういったサービスが受けられれば、電動スクーター普及の後押しになれると思います(EV車はバッテリー重量からして難しそうですが…)。その場で充電するのでなければ急速充電器を導入しなくても充電スタンドビジネスに参入できます。ただしバッテリーの規格を統一する必要があります。文系大学生が思いつくようなことくらい、たぶんメーカーさんも思いつきはしたけど様々な障害があってなかなか実現できないんでしょう。

しかしバッテリー寿命の短いスマートフォンの普及とあわせて、「充電」がひとつのキーワードになってきそうですね。

情報の賞味期限

また更新が滞ってしまいました。アクセス数を伸ばすには、まめな更新が欠かせませんよね。書く練習のためにも時間という負荷をかけるべきでしょうか。ツイッターに走り書きしたもののうち、時間で淘汰されにくそうなものをまとめてまた掲載しようと思います。

刻々と変化する状況に対して、情報も更新し続けていかないとかえって弊害を生みかねませんね。

石巻市ボランティアセンターからのお知らせ
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10163

こまめな更新が必要な情報、しばらくは更新の必要のない情報、あるいは時代を超えて普遍的な情報、それぞれ情報には賞味期限ってのがあります。それは決してその情報の価値とはリンクしませんが、その射程を意識しながら情報を活用するのは大事なことだとおもいます。



先日、スポアートサポートかんさい主催の関西支援団体交流会に参加してきました。

関西で活動する支援者の情報交換と相互交流が目的で、団体さんたちが交代でプレゼンをして、その後立食パーティーをしながら交流を深めるというものでした。僕も色々と得るものがありました。

出会った団体さんたちを紹介していきます。プレゼン内容のメモと僕の主観によるものなので、誤解などがあるかもしれません。詳細は各団体のHPなどをご覧になるなど確認をお願いします。また、お話を聞きながら僕の頭に浮かんだことなども書いていきます。



・市営住宅見守りプロジェクトLINK

独居高齢者の孤独死の予防・早期発見を目標としていらっしゃる兵庫の団体さんです。東日本大震災では、避難世帯の方に市と連携をはかって市営住宅へ移り住んでもらう手伝いをしていらっしゃるそうです。公式サイトは見つかりませんでしたが、当日お話をしてくださった方のブログはありました。

印象的だったのは、「避難所から仮設住宅などへの移転が事務的・機械的に行われてしまうことによって地域のコミュニティー・共同体のつながりが弱められたり壊されたりしてしまう」というご意見でした。特に阪神大震災以後の反省にからめてのお話には非常に興味深いものでした。

避難所から仮設住宅などへの移転が進みにくい理由のひとつは支援が打ち切られて経済的自立を迫られること、もうひとつはコミュニティーがバラバラにされてしまうことへの抵抗が大きいことなのだそうです。

ただし、これについて行政を冷たいとかお役所主義といって批判する人もいますが、僕はそれは少し違うと思うのです。コミュニティーのすべてを維持して他の地域に移すというのは、費用や用地の問題をクリアしても不可能です。ひとつの町を丸々切り取ることができたとしても、その町はその町だけで成り立っているわけではなく、近隣の町と何らかのかかわりを持っている。同じ学校の仲間は隣町から来ているかもしれないし、商売の得意先も然り。すると隣町も一緒に移さなきゃいけなくなって、そのまた隣も…、というように特定の部分だけ移転させて共同体を維持するというのはそもそも無理な話なのです。ミクロに見てもことは同じ。しかし、ある程度希望をとることはできないかとは思いますが、仕組みを知らないので無責任なことは言えませんので、これについては担当者に尋ねるしかありません。

津波や放射能による避難世帯の方たちはもう故郷に戻って住むことが出来なくなるかもしれない。だからこそ、移住させるのであればその後のケアや支援も含めて考えないといけない。ここに、僕達の出来ることがあるのではないでしょうか。

当日お話をしてくださった方は、フェアトレード団体でも活動していらっしゃいます。
http://ftsn-kansai.jimdo.com/

僕自身はフェアトレードについて特に詳しいわけでも熱心に活動したわけでもありませんが、昔呼んだ関係する本として『「エコ罪びと」の告白』(by フレッド・ピアス)を紹介しておきます。著者が自分の身につけている・あるいは消費しているものがどこから来るのかを追跡・調査した内容が詰まっています。自分の着ている服、食べている物の根っこを想像することから、始めてみてください。



・HOPE FOR JAPAN

http://hopefor-japan.org/

イエローバンドの普及を通じての支援を展開していらっしゃいます。もともと社会人の団体なのですが、学生の間に広める活動は学生団体が中心となって行っているそうです。今回も学生のメンバーがプレゼンに来ていました。400円でイエローバンドをひとつ受け取ることができます。そのうち27円の原価と13円ほどの経費(領収書郵送代などで、団体の運営費ではないとのことです)を差し引いて、8割、場合によっては9割以上を寄付する、という仕組みです。

こういう支援の仕方に、売名だとか偽善とか、非効率のレッテルを貼って非難する人がいますが、僕はステッカー・缶バッジ・Tシャツ・ストラップ等なんでも、そういったグッズは効果的であると思っています。もちろん経費の分だけ同額の寄付を直接行うよりも金額は目減りしてしまうのですが、グッズだからこそできることもあります。
まず、グッズを通して寄付を掘り出すことが出来れば、ゼロから有を作り出せたことになるので、それだけで意義がある。これはグッズに限らず、ひとつで○円寄付しますみたいな食品や飲料水などでも同じことで、無いものを掘り起こしたり付加価値を乗せたりするやり方も「あっていい」ですよね。
もうひとつは、目に見える形に残るので寄付した人に「あ、そういえば俺これ買ったんだ。そういや最近被災地のこと忘れてたな」とある種のリマインダーとして機能し、長期的支援の精神的な下地になれる。そして、「え?何そのリストバンド(or Tシャツ、バッジなど)」という友人が一人でもいれば、輪が広がっていくきっかけになりうる。広報と支援が同時に行えるということですね。

この団体の方とは色々と面白いお話ができました。共感というか、すごくいいなと思ったのは
(1)グッズ販売系の支援をするにあたって、そのお金の透明性を徹底している
(2)支援先についても仔細に吟味している
という点です。

ちょっと前にLadyGagaのリストバンドが運送費を水増し着服していたとして米の弁護士に訴えられるなんて事件がありました。僕が調べた限りにおいて公判の続報はありません。なのでまだ判断は留保しておいてくださいね。ただ、チャリティグッズ販売では代金の100%が支援先に届くなんてそもそも有り得ないということです。もし起訴内容が事実ならばもちろん非難も当然なのですが、僕らの側も寄付の方法を考えなければいけないことの好例でしょう。(参考 http://www.huffingtonpost.com/tom-murphy/learning-from-lady-gagas-_b_887794.html)
※上記のリンクは英語です。多分似たようなことはどこかに日本語でもあると思いますが…。すみません。


(2)の支援の方法についても、どこかに丸投げして終わりではなく、運営委員の方が自分たちで支援先を選択するというスタンスは非常に良いと思います。

TeamZEROの活動で鴇明浩さんにお話を伺ったときも、寄付先を吟味するという習慣がまだ日本には根付いていない、お金を効果的に使ってほしいなら自力で寄付先を見直すべきだ、とおっしゃっていました。使われ方、団体の理念、目標などをもとに、自分のお金を何処に預けるのかを検討するのは、消費生活の場では基本的なことのはずですよね。買い物するときは、品質や価格などをもとに判断するのに、寄付先については何も考えない、というのは変ですよね。

あ、ちなみに僕は赤十字がだめだとか言ってるわけではないです。
日赤の公式サイトでは現時点で約2800億円の受付のうち1330億が配布対象者に行き渡ったそうです。(http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002096.html 2011/8/13閲覧)
これは厚生労働省の文書です。義援金の分配については迅速さや透明性などで一時議論が起こりましたが、その総括もしなければいけませんね。(http://www.mhlw.go.jp/shinsai_jouhou/dl/gienkin_0805_01.pdf)

ただ、朝日新聞の6月上旬の記事では(すみません正確な日は忘れました)、たしか10%か15%かしか行き渡っていないとの報道もありました。計算の仕方とタイムラグの問題であると思うのですが…詳しく調べる必要がありますね。

義援金の分配が迅速かつ公正に行われたとしても、経済が回り雇用が生まれないことには、自立をすることはできません。しかし経済を回すには消費の元手がいる。そのためにも義援金は不可欠だと思うのですが、それだけではない、ということも頭に入れながら寄付先を考えたいものです。ある意味ニワトリが先かタマゴが先かですね。ならば、両方やるしかないのかも。



・YOUTH FOR 3.11

http://youthfor311.jimdo.com/

日本最大の学生派遣団体です。被災地へボランティアの人手を多数・効率的・複数回・長期的に送ることを目指していらっしゃいます。先日、立命館衣笠キャンパスでの発表会にも参加させていただきましたが、その規模の大きさは学生企画の枠を超えているというか、非常にパワーのある団体さんです。

僕の同級生の女の子も、この団体を通じたプロジェクトで長期間被災地に入り活動しているそうです。ちょっと尊敬。

人手が今どれくらい必要なのか、自分も言ってみたいが仕事はあるのか、何が出来るのかなど、何かしたい気持ちを持った人が知りたいことはいくらでもあるでしょう。そのためには、現場で動いてる人・つい最近まで現場にいた人に聞くのが一番だと思います(無責任でごめんなさい)。大学生なら、近くに必ず誰かいます。これは更新が必要な情報の類でしょう。

パソコンで手に入る情報は、誰でも手に入る情報。それ以外がほしかったら、自分の足で探すしかないのは今も昔も変わらないのでしょうね。


・スポアートサポートかんさい

http://ameblo.jp/saskansai/

大学の先輩がメンバーに入っていて、僕も仙台でお世話になりました。ネットワーク宮城という団体のサポートをしていらっしゃいます。交流会を主催してくださいました。おそらく今後も、お世話になります。
夏休みの間も毎週金曜日からのボランティアツアーを提供しているようなので、興味のある方はチェックしてみてください。来年の3月まで継続する予定だそうです。行政とは距離おいて、子ども達と食べ物に焦点をあてた支援をされています。



かなり長くなりました。すみません後半に向かってバテました。僕の弱い頭と狭い視野じゃ、この日出会った精力的に活動していらっしゃる団体さんたちのすべてを紹介しきることはできません。しかし、すこしでも広めたいのです。これからは、TeamZEROでもそういった活動をしていきたいと思っています。

勉強も音楽もやりたいことは山ほどありますが、一つ一つを大切に一生懸命やっていきます。

ひとつの区切り

明日、今まで取り組んできた映像作りの完成品を大学で上映します。お世辞にもいい出来とはいえないけど、いろいろなことを勉強できたし色んな人に出会えたことは何よりも良い経験になった。

パンフレットに載せた文章から一部抜粋して転載します。


・迷っている人達へ
被災地ボランティアに行って役に立てるかを気にするぐらいなら、行って確かめてみればいいと思います。都市部を経由して行けば水・食料・宿泊場所は心配いりません。自分の面倒を見られるのなら、迷惑をかけることもありません。僕自身、足手まといにならないだろうかという不安もあったのですが、そんなことは全然ありませんでした。体力も経験も関係ありません。瓦礫撤去や泥掻きに携わる人のなかには60歳をこえていらっしゃる方がたくさんいらっしゃいました。
また夏休みなどに被災地を訪れるつもりの方は、誰か現地を見た人に、生の最新情報を教えてもらうといいと思います。僕らが宮城県に行ったのは一ヶ月以上前のことなので、また状況は変わっているかもしれませんが、質問して頂ければ少なくともネットやテレビが教えてくれないことを伝えられるとは思います。今は色んな団体が移動・宿泊などをセットにしたボランティアパックを提供していますし、個人で自治体のボランティアセンターに行ってもそこでボランティア登録をすれば仕事を割り当ててもらえます。
 またボランティアに行くだけが僕らにできることではありません。イベントやフリーマーケットなどを開催して収益を寄付する、地道に募金活動をしていく、友達がボランティアに行くならバイトを替わってあげたりカンパしてあげたりする、なとなど。工夫すればいくらでも方法は思いつくと思います。

・メディアのこと
震災への対応で政治家を皮肉ることも、マスコミを批判することも、あまりに簡単なことです。しかしそれでは何も変化しません。色々なソースを参照して、裏に何があるか、想定読者はどんな属性の人なのか、想像してみてください。またメディアには「シーベルト」「ベクレル」「ストレステスト」「プルサーマル」…いくらでも意味の分かるような分からないような用語がどんどん湧いてきます。しかし、なんとなくの理解で放っておくと、巧妙な言葉のマジックに引っかかってしまいます。全てを完璧に把握することは無理でも、ミスリードされなために、ふとした疑問を大切にすることはできます。また、あらゆる言説の論理構成にトリックが潜んでいないか注意深く考えてみてください。そして自分がどう働きかけることができるかを考えてみてください。僕らの関心や情報リテラシーが向上すれば、向こうもそれに応えざるを得なくなります。シニズムやアパシーは決して物事を良い方へ動かすことはありません。報道やインターネットの情報を鵜呑みにすることも、嘘と決めつけることも、思考停止に陥っているという意味では選ぶところがありません。

・原発のこと
 今、政策上の最大の争点の一つは原子力発電所の是非にあると言っていいでしょう。「脱原発=非現実的、不見識」なんていう経団連や政治家のコメントもありましたが、現状維持と「現実的」であることは結びつかないし、理想的でない方が現実的であるという機械的な判断は非常に危険なものです。実際、原発を動かす上で避けては通れない放射性廃棄物のうち、使用済み燃料の再処理の際に発生する高レベル放射性廃棄物の地層処分の用地は、2002年の公募以来いまだに決まっていません(現在は青森県六ヶ所村の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターにて「一時的に」保管されています)。つまり後始末のことを考えずに、廃棄物ばかりが次々と溜まっているというのが現状なのです。かの原発大国フランスでも、処分用地は未定のままです。さらに日本では再処理の能力が使用済み燃料の発生量に追い付かず、再処理待ちの使用済み燃料を保管するため、青森県むつ市で中間貯蔵施設が2012年に稼働される予定になっています(来年のことなのに、このことについて取り上げている原発推進派や大手メディアを僕は見たことがありません)。もしそのキャパが切迫してきたら、おそらく「既に大量の廃棄物が存在しており緊急に用地を確保しなければならない」と既成事実を利用して財政的に厳しい地方の自治体に多額の補助金とともに押し付けるという案が出るでしょう。2033年〜37年に最終処分地の建設開始が予定されています。高レベル放射性廃棄物は、直接触れてしまうと20秒で人間は死に至ります。誰もそんなものを自分の街・村の地面の下に置いておきたくありません。これが原発推進論者の言う「現実的」なエネルギー政策なのです。廃棄物の問題は、いくら原発の操業自体が安全に行われても解決されない問題です。風力・太陽光などの代替エネルギーを非現実的と言う前に、そもそも原発が現実的なエネルギー源なのかを、よく考えてみてください。



今日の産経新聞の兵庫版の朝刊に我々の活動が紹介されました。素直に嬉しいけど、お世話になった人たちの期待にこたえられているのか、少し不安。

最近の動き。と雑感。

部活の新入生にギターの基本的な扱い方を教えたり、図書館にこもって文献をひっくり返したり、"大学生"らしい日々を送っている。石巻に行ってからもう一ヶ月以上。自分の感じたこと、目にしたことをずっと咀嚼してきた。頭でっかちにはなりたくないけど、物事を理屈や頭で考え込んでしまう癖があるのは自分でも痛感している。でも心のどこかで、理論と実践は決して対立するものじゃないと信じている。

昨日は立命館大学で、Youth For 3.11のボランティア準備会に参加させていただきました。さすが、動きが早く有能で活動力のある人たちはたくさんいるみたい。

http://youthfor311.jimdo.com/

現在この団体さんを通じてのボランティアパックはしばらく先まで予約は埋まっているそうですが、他の企画の紹介や新規のボランティア登録者の募集も行っているそうです。その他色々な支援をなされていますので、チェックしてみてください。


今この瞬間に助けを必要としている人のために行動を起こすことに何ら異論はないし、素晴らしいことだと思っています。いろんな場所で長期的支援の必要性が叫ばれているし、ボランティアの人手不足も深刻な事実だと思っています(ボランティアの不足、っていう言い方も少し違和感はありますが…)。だからこの夏休みに行ってみようという人に対して批判をするつもりは全くないし、そういったシニカルな言説に与するつもりもない。

ただ、それだけが全てじゃないはずだとも心のどこかで感じるのです。ボランティアへ行くこと、何か「支援」の看板をつけた活動をすることが、ある種のステータスというか踏み絵というか、そういうものになってしまわないか、時々心配になるのです。

地震に関連して、日本(または世界)におけるエネルギー問題・政治システムの脆弱性・メディアの光と影が顕在化しました。それに取り組むために、技術的にでも政治的にでも原子力と代替エネルギーについてコミットする人がいてほしいし、政治は分別のある若い人に担ってほしいし、より多くの人に高い情報リテラシーを持ってほしい。他の色んな分野でも同世代がこれから活躍してくれることを願っている。経済を引っ張っていくために新しいビジネスモデルをひねり出そうとする人にも、科学の進歩に貢献するために必死で勉強する人にも、素敵な音楽を奏でるため練習を積む人にも、それぞれの道で頑張っていただきたい。

自分たちに出来ることを模索し、行動している人たちに僕は心から敬意を抱いています。決して斜に構えたり批判する意図はありません。3日という短い期間ながら、色んな事を知った、というか知るべきことがあるということを知った経験から、一人でも多くの学生が現地ボランティアでも後方支援でも活躍してくれることを願っています。僕も引き続きコミットしていきます。ただし僕たちに出来ることは、被災地に行って体を動かす「だけ」ではないし、募金を集めて寄付すること「だけ」でもないと思っています。

たぶん、僕の出会った人たちはこんなことで足踏みしてる段階なんてとっくに脱してることでしょう。

結果的に何が言いたいのかというと、僕は頭でっかちで堂々巡りばかりしているということです。凡庸な頭の中は矛盾ばかりで読みにくい文章しか書けないけど、足掻いていたいのです。


追記:
先日のシンポジウムの映像が見られるようになったようです。ご参考までに。Ustreamというのは僕の勘違いでした。申し訳ありません。
http://style.carenet.com/2079.html

I'm afraid of those who pretend they know what they actually don't know.

 昔からずっと疑問に思ってたことがあります。たとえば今なら原発関連のテーマで言葉を発する人。みのもんたでも古館伊知郎でも、論説委員でも、"原子力の専門家"でも誰だっていい。ある出来事に対して様々な他罰的言説を述べる人々に対する素朴な疑問。はたしてどこまで事件の全体像を、またはその詳細を把握したうえでものを言っているのか、単純に疑問だったのです。放射線量の話でも、菅総理に対する評価・批判でもなんでもいい。線量の推移をみて物言う人はその数値の意味をどこまで理解しているのでしょうか。「原発事故の対応が不適切だった」という人は、こうすべきだったという代わりの回答を用意できるのでしょうか。オウム信者を被写体に選んだ森達也さんの「A」というドキュメンタリーをプロパガンダ映画として非難したひとが、実は映像を見ていなかったなんて話もあります。さすがにこれはちょっと笑えない。

 実は"大人"の世界って、お互いの無知が露見しないようにただ適当に話を合わせて、自分の分からないことを放置しておくことで回っているんじゃないかと勘繰ってしまいそうです。そういった話題はある種のタブーになっていって、誰も良く分かってないまま盲目的に社会は動いていた、なんてのも嘘じゃないかもしれないと思ってしまいます。たとえば選挙の時なんか、みんながはたしてどれくらいの関心とリサーチを持ってその一票を投じているのか、疑問に思った方は僕だけではないでしょう。

 別に全てを知りつくさなければ批判してはならない、なんて暴力的なことを言いたいのではありません。どの程度まで知らなければ語ってはならないなんて基準をつくるなんて不可能だし、誰にも発言を邪魔されない権利はあります。僕より何年も何十年も生きている方なら、僕の知らないたくさんのことを知っていらっしゃると思うので、むしろ僕が世間知らずの青二才と言われれば言い返せません。お前みたいな暇な学生とは違っていちいち調べてる時間ねえんだ、というのもごもっともです。しかしこれらのことは決して、知ったかぶりをしていい根拠にはなりません。知らないことを「知らない」と言えない世の中はあまりに不幸だし危険だと思うのです。単純に怖いのです。僕は決して菅総理を全面的に支持しているわけではありません。ただ、よくわからないまま、納得しないままいい加減な判断をして不支持の立場を取るのは絶対に嫌だし、怖いのです。知らないまま突き進むことへの恐怖は特になんてことのない普通の感覚だと思うのですが…。