国旗損壊罪

先日、自民党国旗損壊罪を提案する方針を昨日固めていたことを知りました。その意図については明記されていなかったので、また続報を待つか調べる必要がありますが、現時点で僕は支持しかねます。

僕は○○式の度に、国旗掲揚・国歌斉唱は慣習的に式のプログラムに入っていつ以上とりあえず決まりだからなんとなく半分従って、でも特に意義も分からないから半分逆らっていました。一応生徒会役員だったから国旗掲揚のためロープをカラカラと引っ張ったし、国歌の場合は起立はするけど自分は歌わずにただテープが流れておじさんたちの一部が低い声で唸るように歌っているのを聞いている、というスタンスでいました。

そこまで深く国民国家という枠組みを意識したことはなかったし、国旗国歌にも特別な意識はなかった。
だから、中国の反日デモなどで日の丸が燃やされていても、それが原因で日本人としての誇りに傷が付いたとか激昂したとかもない。

正直、そんなことはどうでもいいよというのが本音。そして、どうでもいいような規制・制限は絶対に無いほうがいい。

ベッカリーアを引用すれば

無数のささいな行為を禁ずることは、少しも犯罪を予防することにはならず、かえってその結果つぎつぎに犯罪を生むことになるばかりだ。

(『犯罪と刑罰』風早八十二、五十嵐二葉訳、岩波書店)
循環論法のような気もするのですが、個人の自由を制限するような決まりは必要最小限に抑えるべきであるという考えに僕は異論ありません。くだらないことを法律で規制されなくても済むような社会を作ることの方が先でしょう。犯罪には刑罰による対症療法よりも、すぐれた教育と社会制度を確立し、「誰も盗みや殺しや騒動を巻き起こそうとは思わない」世の中にする原因療法が一番だと思います(理想論ですが)。到底不可能でも、限りなく肉薄する労力を惜しんではなりません。

最終的に別件微罪逮捕の源泉にもなりかねない気もします。今、日本は間接民主主義のもと簡単に政権が転覆する国ですけど、具体的な「政権」ではなくてそれぞれの政権を成り立たせる制度に対して異議申し立てをすることが、今後起こらないとも言い切れない。この導き方はちょっと卑怯かな。
そこで誰かが国旗を燃やせば、それだけで罪に問うことが可能になり、反体制的な勢いを合法的に牽制する根拠になりうる。

しかしこのように国旗国歌に対する「不敬」に罰則規定を設けるということは、当時の政体ないし提案者はその必要を認めたということです。それはそのまま、国旗国歌を毀損することでダメージを被るような脆弱な政体であることを認める、またはそういった(どうでもいい)行動を規制の必要のある(どうでもよくない重要な)行動であると捉えることになるんじゃないかな。つまり、国旗国歌に対する毀損が政治的に意味を持つようになる。軽率な言い方をすると、犯罪に仕立て上げられることである種の箔がついてしまう。

逆説的ですけど、こんなことしない方が国旗国歌(とその支持者)のためになる気がする。
異議申し立て、反対の手段を確保することだけが、本当の賛同を得る条件になりうる。これって当たり前ですよね。

いざ何か自分の行動や選択が制限されるとなると、今まで関心のなかったことにも抵抗感を感じるのは心理的リアクタンスという現象らしいです。


参考に内田樹先生のブログへのリンクを。
http://blog.tatsuru.com/2011/03/03_1034.php

はてなダイアリー編集画面の機能が多くてなれないですね。
でも大事なのは体裁より中身。たくさん学んで練って書いて、モノを書くことに慣れていきたいです。